自分自身や人間の存在を都合よく消して自然について語る人が多いですが、特に教育において、ここは外してはいけないところだと思います。理論や法則を考える上では良いのですが、そこで実際に人間として生活し、人間同士が関わり合う場として捉える時には、自分の身体も自然の一部であるということを何度も実感し直すことが必要です。
人間は機械ではなく、誰かが作ったプログラムで動いているわけでもありません。「こんな場合はこうすれば良い」と言うだけなら簡単ですが、肉体をもって実践しようとすると、そううまくはいきません。様々な要素が複雑に絡み合っているからです。当たり前のことですが、ついそれを忘れて「なんでうまくいかないんだ」「なんで言うことを聞かないんだ」と怒ったり嘆いたり、余計なエネルギーを使っている人が多い印象を受けます。
都市で生活をしていると、「人間が自然である」とはどういうことか、簡単に分からなくなります。不具合があった時には物や技術の力でどうにかごまかせてしまうことが多いからです。言葉でどうにか言い聞かせて無理に納得させられてしまうことも多いです。機械やシステムの方に人間が合わせることに疑問が抱かれなくなっています。AIは脅威だと言われながらも、あっという間に乗っ取られそうになっています。日々あらわになる社会の綻びを見つめ、人の叫びを聞いていると、そのやり方には限界があるのではと思わされます。
当たり前ですが、人間には個体差があります。遺伝子が違います。年齢や性別だけで見ても一人一人違います。朝が好きな人もいれば夜が好きな人もいて、寒いのが苦手な人もいれば暑いのが苦手な人もいて、大人数でにぎやかなのが好きな人もいれば静かに一人で過ごすのが好きな人もいます。その日の体調や気分によっても違うでしょう。季節や時間によっても違うでしょう。それぞれが自分の身体の状態を感じながら、折り合いをつけて社会生活を送っています。
大人になると、自分の身体のことも把握しやすくなり、自分に合ったライフスタイルが選べるようになりますが、身体が成熟しきっていない発達段階の乳幼児や小中学生にその判断は難しく、また大人の保護下に置かれているので自由はかなり制限されています。「人間も自然である」という前提をないことにして、大人が勝手に作り出したシステムやルールや価値観に子どもたちを合わせようとしているのが今の教育です。「気持ちは分かるけど、決まりだから仕方ない」が合言葉になっています。(ここを変えていくのが一番難しいのですが……)
ある程度のところまでは観察したり制御したりできるけれど、究極的には人間も「自然」で、法則通りにはならないし、思い通りにはなりません。台風や地震をコントロールできないのと同じです。自分のことも子どものこともそんな生き物として見つめれば、理不尽で不自然な規則や価値観で縛っても意味がないと気づけるのではないでしょうか。また、納得いかないことがあっても「自然なことだから仕方ない」と諦められるようになると思います。
では、「人間が人間らしく、自然な状態である」とはどのような状態でしょうか?昔から色んな人が色んなことを考えてきました。性善説だとか性悪説だとか、利己的だとか利他的だとか、二択で決まるようなことではないし、生物学、医学、生理学的観点からもまだ解明されていないことが山ほどあります。
答えが分からないからこそ、私は一人一人の曖昧なグラデーションを多様性として楽しみ、より良い社会とはどのような社会だろうかと考え続けるモチベーションに繋げていきたいと考えています。ここに教育の可能性とやりがいを感じます。
自然状態の人間は、冷酷で乱暴なことも大いにあり得ます。自然状態を受け入れることは、そのような現実を受け入れることでもあり、覚悟が必要です。でもそれくらいの覚悟を持って動けば、綺麗事や欺瞞の芽を摘み取っていくことができ、今の人生や社会に閉塞感を感じている人は減っていくのではないかと、希望も持てるのです。
2023.1.6