「教える」の本質は「知らせる」

 人に何かを「教える」とはどのようなことか、ずっと考えてきました。私は「知らせる」ことではないかと思います。「できるようにする」「分からせる」ではありませんし、「伝える」でもありません。

 教える側(に立たされている側)ができることは、あくまで「知らせる」にとどまるのではないでしょうか。そこにあるもの・ことについて、それがどういう意味なのか、何を示しているのか、どうやるのか、なぜ分からないのか、なぜできないのか、などを、教える側の立場から観察して読み取って、ただ述べること。それが「知らせる」ことです。あくまで教える側の経験や主観に基づくものでしかありません。受け手がそれを”知って”、その上でどう解釈して受け止めるかは、受け手次第です。知った後でどう振る舞うかまでは、教える側が決めることはできません(ある程度予測することはできるかもしれません)。

 教える側は、受け手につい期待してしまって、「分かってもらえない」「伝わらない」「できるようにならない」など様々な不満を抱えます。それは、教えることのゴールを見誤っているからです。教える側にできることは、ただ知らせることだけ。それが腑に落ちていれば、勝手な不満も抱かずに済むでしょう。

 今の日本の学校教育は、このような考え方からは程遠いところにあると思います。さも、初めから「身につけさせるべきこと」があるかのようにカリキュラムが組まれ、指導されていきます。当たり前ですがうまくいかないことも多く、大人も子どもも疲弊していきます。どちらが悪いということではなく、ただ、「教える」ことの意味を取り違えているのだと思います。

 この考え方に立つと、教わる側は、何かができるようになるまでただ自分でやるしかないということになります。おかしな気がするかもしれませんが、私は、教える側と教わる側がそれぞれ自立したこの姿こそが、本来の教育だと感じます。