投稿者「natsukitoyama」のアーカイブ

自己肯定感

 子どもの自己肯定感を育てることは、言うまでもなくとても大切なことです。一生を過ごす上での基盤になります。自己肯定感があれば、どんな困難や逆境にぶつかっても乗り越えていけるでしょう。

 自己肯定感を持てている状態というのは、「自信があること」「自分を好きでいること」とは少し違うと考えています。たとえ自信を持てる部分がなくても、好きになれない部分があっても、それでも自分は自分であり、生きていて良いのだと自分で認められることが自己肯定感ではないでしょうか。シンプルに「肯定する」とはそのようなことだと思います。

 自分はダメな人間だ、自分のことが嫌いだ、と思っている人に対して、「そんなことないよ」とつい言いたくなります。その人のネガティブなセルフイメージを否定するような言い方で「ダメじゃないよ」「良いところいっぱいあるよ」と励ましたくなります。それも間違いではないのかもしれません。思いやりは伝わります。でも、私はそこでその人が「自分をダメだと思わなくなること」「自分を嫌いではなくなる(好きになる)こと」を目指してもうまくいかないと考えています。必要なのは、「そうなんだ、あなたは自分のことをそう思っているんだね」とその人のセルフイメージをまずは受け入れること。共感すること。そして「でもそんなあなたでもいい」「それがあなたなのだから」と伝えることではないでしょうか。

 これは相手が大人でも子どもでも同じことです。ありのままのその人を受け入れる(=肯定する)ことが重要です。その人にとっての安全基地となることです。その人を好きでいることとは似て非なるところがポイントです。好きになれない部分があっても良いのです。それがその人なのだ、どんなあなたでもあなたなのだ、と存在を丸ごと認められれば良いのです。

 そもそも、長所や短所、能力の高い低いなどは、相対的なものでしかありません。基準が変われば簡単に変わるものですし、人や環境が変われば評価も変わります。世界はもっと広く、絶対的な基準も評価もありません。それならば、どこが良いだの悪いだのジャッジするのはやめて、自分のことも他人のこともありのままをただ認めれば、より一人一人が生きやすくなると思います。そのようにして、子どもが健全に自己肯定感を育てられるような社会を私は望んでいます。

「教える」の本質は「知らせる」

 人に何かを「教える」とはどのようなことか、ずっと考えてきました。私は「知らせる」ことではないかと思います。「できるようにする」「分からせる」ではありませんし、「伝える」でもありません。

 教える側(に立たされている側)ができることは、あくまで「知らせる」にとどまるのではないでしょうか。そこにあるもの・ことについて、それがどういう意味なのか、何を示しているのか、どうやるのか、なぜ分からないのか、なぜできないのか、などを、教える側の立場から観察して読み取って、ただ述べること。それが「知らせる」ことです。あくまで教える側の経験や主観に基づくものでしかありません。受け手がそれを”知って”、その上でどう解釈して受け止めるかは、受け手次第です。知った後でどう振る舞うかまでは、教える側が決めることはできません(ある程度予測することはできるかもしれません)。

 教える側は、受け手につい期待してしまって、「分かってもらえない」「伝わらない」「できるようにならない」など様々な不満を抱えます。それは、教えることのゴールを見誤っているからです。教える側にできることは、ただ知らせることだけ。それが腑に落ちていれば、勝手な不満も抱かずに済むでしょう。

 今の日本の学校教育は、このような考え方からは程遠いところにあると思います。さも、初めから「身につけさせるべきこと」があるかのようにカリキュラムが組まれ、指導されていきます。当たり前ですがうまくいかないことも多く、大人も子どもも疲弊していきます。どちらが悪いということではなく、ただ、「教える」ことの意味を取り違えているのだと思います。

 この考え方に立つと、教わる側は、何かができるようになるまでただ自分でやるしかないということになります。おかしな気がするかもしれませんが、私は、教える側と教わる側がそれぞれ自立したこの姿こそが、本来の教育だと感じます。

芸術としての教育、科学としての教育

 教育には、芸術としての側面と科学としての側面があると思います。

 答えや正解がないという前提で、その都度、そこにいる人たちが関わり合って、良い、美しい、正しいと信じられる道を探していくことが芸術的側面なのに対して、現在わかっている、正しいとされている事実に基づいて客観的に状況を観察、分析、判断し、不適切なことは避けて、できる限り最善を尽くすことが科学的側面です。新たな創造や研究の種がそこで生まれます。

 どちらが重要ということではなく、大人の一人ひとりが、芸術家としての自由と、科学者としての知性の両方を大切にして、子どもと向き合えば良いと思います。その視点や感性や姿勢は、すべて自然と子どもに伝わるはずです。そこで子どもから新たな気づきを得られることもあります。その相互作用が教育そのものではないでしょうか。

 うまくいかないことがあった時は、”正解”や”常識”にとらわれて芸術的な観点を失っていないか、あるいは自分の直感や信念に固執して科学的な観点を失っていないか、まずは自分を見直すことで、軌道修正できると思います。

 自分も相手も人間です。常に状況をメタ認知して、柔軟に身体を変化させていくことが、大人には求められています。

内発的動機

 人間が行動するきっかけとなる動機は、内発的動機と外発的動機に分けられます。外発的動機の一番分かりやすい例は、ご褒美、報酬です。子どもが、外発的動機ではなく内発的動機によって学べるようにする、というのは教育において鉄則です。外発的動機による誘導で学習したり成績を上げたりして得られる喜びは、長い目で見ると本質的な幸福や自由にはつながりません。他者の評価軸によっているからです。そうではなく、内発的動機によって、自分自身の欲求や好奇心の赴くまま夢中で何かに取り組んで成長したり変化したりすることで、自分だけの評価軸が作られていきます。生涯を通じて大切なことです。

 では、内発的動機とはなんでしょうか?これは実は難しい問題だと思っています。例えば、朝起きて急に「あれがやりたい!」と閃いて何か始めるとしたら、これは内発的な気がします。では、周りの人が何かやっているのを見て「自分もやりたい!」と思って始めることはどうでしょうか?直接のご褒美や報酬がないとはいえ、「あの人があれをやって褒められているのが羨ましいから自分もやってみたい」と感じているとしたら間接的に外発的だと思います。ただ純粋に「面白そう!」というだけなら内発的な気がします。色々な具体例を想像して、外発的か内発的かを考えると、案外、明確な線引きは難しいことが分かります。

 明確な基準を定めることはできませんが、「ご褒美や報酬がなくても、ただ自分の楽しみのためだけにやりたい」「誰にも知られなくても、誰の目にもとまらなくてもやりたい」「どんなに無駄と言われてもやりたい」などと感じられることが、内発的動機によるものなのだと思います。子どもが、なるべく自分から「やりたい」と感じて行動できるよう、環境設定や声掛けを考えることが大切です。

「AするとBだよ」という声かけの本質を考える

 日本だけでなく世界中で当たり前に使われているであろう「AするとBだよ」という子どもへの声かけは、本質を見つめると世界観そのものがあらわになって面白いです。大人の思い込みは根深いので、注意が必要なのではと思います。

①因果関係パターン

 子どもの行動を見て、大人は「走ると転ぶよ」「それ以上重ねても倒れるよ」など、注意や助言の意味を込めて声をかけることがあります。大人は因果関係を知っているからです。子どもは知らないので、いくら言ってもやります。そして失敗します。そしてまた繰り返します。それは子ども自身の成長のためには絶対に必要なことです。何でも自分でやってみないと分からないのです。(大人も同じです。)

 「AするとBだよ」という大人の声かけは、もしかしたらなくても良いのかもしれません。よほど命の危険につながるような時だけ強制終了させられるように見守っていれば、あとは子どものやりたいようにやって良いし、黙って見ていると大人もあっと驚くことをするので純粋に面白いです。危ないと思うことも、「かもしれない」だけで、案外本当に危ない事態にはならず、気づいたら危なくないように子ども自身ができるようになっている、ということもあります。それに多少のケガなどは必要悪で、それで子どもが「次からこうしたらいい」と考えるきっかけになるので良いのです。

 つい口から出そうになる言葉を、これ本当に言う必要あるかな?と一度飲み込んで考えてみることは大切なことだと思います。子どもの成長にとっては、失敗もケガも全てプラスになります。これから起こることに対して勝手な見通しを立てない方が、互いに成長できる気がします。

②脅迫パターン

 また、「ご飯残すとデザートあげないよ」「宿題やらないと日曜日遊べないよ」「悪いことするとサンタさん来ないよ」など、因果関係も実はよく分からないような脅迫的な言い方にはもっと気をつけないといけないと思います。家庭や教育現場それぞれのルールがあって、そのルールを守らないといけない、という教育スタイル自体を否定するわけではありませんが、そもそもそのルールは適正なのか?根拠は?一貫性はあるか?(大人の気分でルールを変えていないか?)子どもも受け入れているルールなのか?など、よくよく考えないと、子どもは混乱します。一方的な大人の都合でその場を収めようとするような物言いは、子どもには通用しません。長い目で見ると、子どもの素直な成長が阻害されることに繋がりかねません。

 子どもが全く言うことを聞かない、という時は、もしかしたらこんな物言いをしていて、こちらが変わる必要があるのかもしれません。

 上の①因果関係と②脅迫は、いつもどちらかに分けられるというわけではなく、どちらも含んでいるようなパターンもあると思います。とにかく「○○すると○○」「○○しないと○○」という言い方には注意が必要で、特に咄嗟に口から出す場合は、後から反省した方が良いことも多そうです。

「教育は自分のためにやっている」という覚悟を決める

 教育は「子どものためにやっている」と思い込みがちです。もっと重くなると「自分を犠牲にして子どものためにやっている」となります。もちろん、自分より先に子どものことを思いやるのは大切なことです。でも「情けは人の為ならず」という言葉があるように、教育は子どものためではありますが、同時に自分のためでもあります。子どものためにやっていることが自分のためにもなっている、という喜びが教育者として歩んでいく原動力になります。

 別の角度から言うと、「自分のためにやっていることが子どものためにもなっている」と信じられる人が教育者になれるのだと思います。本当に子どものためになっているかどうかはこちらからは分からないので(その子が決めることだと思います)、信じるしかありません。その信念がプラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともあります。相性の問題や場の問題もあります。

 「自分のことなんて考えていない、全部子どものためにやっているのだ」という思い込みは、教育という営みがマイナスの結果を生んでしまった時に、毒にしかならないと思います。自分が悪いのかもしれないという反省への扉が閉じてしまいます。常に、「子どものためを思ってはいるが、同時に自分のためでもある(自分が気持ちよくなるためである)」という心を持っておく、むしろ「全部自分のためなんだ」と思うくらいでもちょうどいいかもしれません。

 一度どこかでそういう覚悟を決めると、いざ現場に入る時にはリラックスしていられる気がします。

魔法

①「魔法」を見せる

 目の前で起こった現象を「魔法のようだ」と形容することがあります。魔法を信じていなくても、因果関係が分からなかったり、技術的に不可能と思われていたことが可能になっていたりすると、そう言いたくなります。不思議で仕方ない気持ちになります。人間は年齢を重ねるうちにいつの間にか魔法を信じなくなりますが(魔法に見えるけれど絶対にトリックがあると考えるようになる)、子どものうちは魔法を信じていることも多いです。
 子どもの頃に「魔法のようだ」と感じるほどのインパクトのある体験をすることは、その後の成長にとって大切なことだと思っています。好奇心の種が植えられ、なぜだろう?どうしたら自分にもできるだろう?と考えるきっかけになります。少しずつ学習を重ねるうちに自然と種明かしされていくことは多いですが、その時の快感は、”魔法”を目にしたことのある人の方が大きいのではないでしょうか。「そういうことだったのか!」という自分にしか味わえない快感があります。
 また、高度な技術に支えられて魔法のように見えることというのは、形にするのに大変な労力(コスト)を必要とします。テーブルマジックやチャットAIなどが良い例です。「魔法ではなくトリックがあるのだ」と知ることが第一段階とすると、それを自分でもやってみようとトライすることは学習の第二段階と言えます。ここで、多くの人はつまずくことになります。こんなに大変なことをいとも簡単そうにやってのけるなんてすごい、と他者へのリスペクトに繋がると私は思っています。
 現実世界に魔法なんてない、という前提で生きるよりも、「魔法みたい」なことを追求できると、人生はより豊かになるのではないでしょうか。

②変身の魔法

 ファンタジーの世界には、変身の魔法があります。呪文を唱えたり道具を使ったりすると姿形を変えられますが、魔法使いなら誰でもできるかというとそうではなく、見習い魔法使いが一生懸命練習する場面が出てくることもあります。
 昨年(2022年)のことですが、「これだ!この感覚が掴めれば、魔法の世界なら変身できるのだ!」と急に雷が落ちたような衝撃を覚えた瞬間がありました。「相手を尊重するとはどういうことか」「共感するとはどういうことか」「相手の立場に立つとはどういうことか」などずっと一人で考えていた時のことでした。その答えは、「魔法が使えたとしたら変身できる状態になれれば良い」だと思いました。他人に対する説明にはなっていませんが、自分の中では十分な答えでした。
 思い返すと、真に相手の立場に立てている、尊重できている、と思える瞬間というのが時々あったのです(いつもできれば良いのですが、私はそんな聖人のような人間ではありません)。あれは自分の錯覚などではなかったと思います。自分自身を保ちながらも、同時に相手に乗り移っているような、逆に乗り移られているような感覚です。
 一度この感覚を認識できると、今度は自分から意識してこの状態に持っていこうとすることができます。まさに魔法の練習です。どんなに集中して相手を観察しても、コミュニケーションをとっても、なかなか「今なら変身できる!」という感覚にはなりません。でも少なくとも、相手を自分の思い通りにしようとか、無理に変えようとか、そういう独善的な気持ちにはなりません。”今ここ”にフォーカスしながらも、リラックスした心地よい時間だと思います。
 私は小さい頃からファンタジーが大好きで、今でも気に入った作品は読み返すことがありますが、最近はよくこの変身の魔法のことを考えます。「変身の魔法が使えるようになるような気持ちで」なんて保育や教育のテキストには絶対に書かれることはないと思いますが、自分が現場に入る時には心がけるようにしています。

2023.1.12

人間も自然の一部である

 自分自身や人間の存在を都合よく消して自然について語る人が多いですが、特に教育において、ここは外してはいけないところだと思います。理論や法則を考える上では良いのですが、そこで実際に人間として生活し、人間同士が関わり合う場として捉える時には、自分の身体も自然の一部であるということを何度も実感し直すことが必要です。
 人間は機械ではなく、誰かが作ったプログラムで動いているわけでもありません。「こんな場合はこうすれば良い」と言うだけなら簡単ですが、肉体をもって実践しようとすると、そううまくはいきません。様々な要素が複雑に絡み合っているからです。当たり前のことですが、ついそれを忘れて「なんでうまくいかないんだ」「なんで言うことを聞かないんだ」と怒ったり嘆いたり、余計なエネルギーを使っている人が多い印象を受けます。
 都市で生活をしていると、「人間が自然である」とはどういうことか、簡単に分からなくなります。不具合があった時には物や技術の力でどうにかごまかせてしまうことが多いからです。言葉でどうにか言い聞かせて無理に納得させられてしまうことも多いです。機械やシステムの方に人間が合わせることに疑問が抱かれなくなっています。AIは脅威だと言われながらも、あっという間に乗っ取られそうになっています。日々あらわになる社会の綻びを見つめ、人の叫びを聞いていると、そのやり方には限界があるのではと思わされます。


 当たり前ですが、人間には個体差があります。遺伝子が違います。年齢や性別だけで見ても一人一人違います。朝が好きな人もいれば夜が好きな人もいて、寒いのが苦手な人もいれば暑いのが苦手な人もいて、大人数でにぎやかなのが好きな人もいれば静かに一人で過ごすのが好きな人もいます。その日の体調や気分によっても違うでしょう。季節や時間によっても違うでしょう。それぞれが自分の身体の状態を感じながら、折り合いをつけて社会生活を送っています。
 大人になると、自分の身体のことも把握しやすくなり、自分に合ったライフスタイルが選べるようになりますが、身体が成熟しきっていない発達段階の乳幼児や小中学生にその判断は難しく、また大人の保護下に置かれているので自由はかなり制限されています。「人間も自然である」という前提をないことにして、大人が勝手に作り出したシステムやルールや価値観に子どもたちを合わせようとしているのが今の教育です。「気持ちは分かるけど、決まりだから仕方ない」が合言葉になっています。(ここを変えていくのが一番難しいのですが……)
 ある程度のところまでは観察したり制御したりできるけれど、究極的には人間も「自然」で、法則通りにはならないし、思い通りにはなりません。台風や地震をコントロールできないのと同じです。自分のことも子どものこともそんな生き物として見つめれば、理不尽で不自然な規則や価値観で縛っても意味がないと気づけるのではないでしょうか。また、納得いかないことがあっても「自然なことだから仕方ない」と諦められるようになると思います。


 では、「人間が人間らしく、自然な状態である」とはどのような状態でしょうか?昔から色んな人が色んなことを考えてきました。性善説だとか性悪説だとか、利己的だとか利他的だとか、二択で決まるようなことではないし、生物学、医学、生理学的観点からもまだ解明されていないことが山ほどあります。
 答えが分からないからこそ、私は一人一人の曖昧なグラデーションを多様性として楽しみ、より良い社会とはどのような社会だろうかと考え続けるモチベーションに繋げていきたいと考えています。ここに教育の可能性とやりがいを感じます。
 自然状態の人間は、冷酷で乱暴なことも大いにあり得ます。自然状態を受け入れることは、そのような現実を受け入れることでもあり、覚悟が必要です。でもそれくらいの覚悟を持って動けば、綺麗事や欺瞞の芽を摘み取っていくことができ、今の人生や社会に閉塞感を感じている人は減っていくのではないかと、希望も持てるのです。

2023.1.6

啐啄同時

 啐啄同時(そったくどうじ)とは禅語のひとつで、鳥の雛が卵から孵ろうとする時に、卵の内側から雛が殻をつつくこと(啐)と、それに応じて外側から親が殻を破ること(啄)が同時に起こること。大学の教職課程で初めて聞いた時、教育になんてぴったりな言葉なんだと感動したのを覚えています。教育原理の授業でした。

 子どもは、何かをしたい、知りたい、学びたい、と常に意欲や好奇心を発散させています。それを無理に引き出すでもなく、かといって放任するでもなく、ちょうど良いタイミングで教育者が手を差し伸べたりフィードバックを与えたりした結果、その均衡がとれた瞬間というのは、互いにとても気持ちの良いものだと思います。

 子どもの力が強ければ、中から勝手に殻を破って出てこられることもあるでしょう。それはそれで素晴らしいことです。また、子どもの力を信じて何もせず根気強く待つこともひとつのやり方です。ただ、未来がどうなるか誰にも分からない状況の中、「何もしない」を実際にやってみるとなかなか難しいものです。もしかしたら子どもは諦めていつまでも出てこられなくなってしまうかもしれません。外に先生がいることを知っているから頑張れるということもあります。むやみにちょっかいを出したり殻を割ってしまったりすることは望ましくありませんが、ここぞというタイミングを逃さずに外から殻を叩くことができたら、どちらにとっても喜ばしく、人間関係も深まっていくと思います。

 人と人が、魂と魂で向き合うような教育を。
 「魂」という言葉は科学的ではなく、その存在は誰も証明することができません。あるかないかは分かりません。それでも私があえて教育においてこの言葉を掲げていこうと思ったのは、10年以上前になりますが、心理学者の河合隼雄さんがその著書の中で使っているのを読んだことがきっかけです。たしか「魂としか言いようがないもの」と表現されていました。人間の心を見つめ続けてきたこの人がそう言うしかないのなら、その通り信じてみようと思いました。私も同じようにイメージしていたからです。
 私にとって魂とは、一人の人間が生まれてから死ぬまで変わらず核として宿しているものです。「その人らしさ」としか言いようのない、何十年経っても変わらない、あの感覚です。魂には形がないので、その生と死のタイミングは時計やカレンダーで計れるものではなく、受精からゆっくり少しずつ一人の人間の肉体に宿り、心臓が止まって脳の機能が止まるとまた少しずつどこかへ消えてなくなっていく、そんなイメージです。遺伝子や脳の研究がもっと進めば、客観的に論理的に説明できるようになるかもしれないし、もしかしたら人工的に作り出せるようになるかもしれませんが、未だ解明されていないことは多いので、仮に「魂」と呼んでも良いのではと思っています。もしかしたら何かの宗教が同じような思想を持っているかもしれませんが、私は特定の宗教を信仰しているわけではなく、自分で考えています。
 教育現場で人と人が関わり合うにあたり、単に言語や道具を媒介とするだけではなく、魂と魂が呼応するような場が生成されると、それは素晴らしい環境になると思います。

2023.1.3