子どもは大人と同じように、自分の感覚を頼りに自分の力で成長することができます。むしろ、様々な固定観念や偏見でがんじがらめになっている大人よりもずっと素直に柔軟に、努力を惜しまず夢中で自分を変えていくことができます。
「教えてあげないとできるようにならない」というのは解釈の仕方によっては間違っています。手取り足取り全てを教える必要はありません。適切な環境さえ整っていれば、わざわざ教え込まなくても、子どもは自分から周りを観察し、吸収し、発見できます。ゴールも自分で設定できます。評価も自分でできます。時間はかかるかもしれないし、もしかしたら死ぬまでゴールに到達できないかもしれませんが、結果論ではなく、子ども自身がその過程を楽しむことができていれば十分ではないでしょうか。
赤ちゃんはわざわざ教えなくても自分から寝返りをし、ハイハイをし、歩けるようになっていきます。生活しているだけで、どんどん言葉も覚えていきます。学校に通う年齢になってからも、その意欲、好奇心、自発性が尊重され、潰されなければ、好きなことややりたいことを自分で見つけて、技術や思考力を身に付けて、自分の道を進んでいくことができます。
暗記や詰め込みではなく、課題発見、問題解決の力が大切であると、文科省もやっと舵を切るようになりました。しかし、それまで問いを与えられっぱなしで、「こうしなさい」「ああしなさい」と教えこまれていた子どもが急に「自由にしなさい」と言われても、戸惑ってしまうことは容易に想像できます。やりたいことの見つけ方を忘れてしまっている子どもは多いと思います。幼児期の小学校接続段階からそこを社会全体で意識していくことが必要で、余計な刷り込みをする大人が一人でも減っていけばいいなと思います。
投稿者「natsukitoyama」のアーカイブ
理想の子ども像を持たない
保育園や学校、その他教育施設において、「理想の子ども像」や「○○な子どもを育てる」など、行政や経営者の願いがこめられたイメージが掲げられていることは多いです。でもこれを前向きに考えれば考えるほど、なりたくてもそうなれない子どものことが脳裏に浮かび、大人たちは良かれと思って残酷なことをしているのではと感じるようになりました。
元気になりたくてもなれない子はいます。周りに優しくしたくてもできない子もいます。勉強を頑張りたくてもそれどころではない子もいます。本人の努力だけの問題ではなく、環境を変えなければ動けない子どもたちは沢山います。そういう子どもたちが、他人(大人)が掲げた理想に近づこうと頑張ったとして、いつか幸せになれるでしょうか?理想に向かっていけない子どもは「問題児」「困った子ども」「落ちこぼれ」なのでしょうか?
理想は理想。そのイメージに近づくことはできるかもしれませんが、理想を実現した姿は一つに決まりません。一人一人違います。「この子は実現している」「この子はしていない」と客観的な指標で判断できるものでもありません。仮に実現できたとしても、人間は自然な生き物なので、いくらでも変わる可能性があります。
理想は子どもの数だけあって良いと思います。その子がその子らしく、否定されずにいられることが理想です。なのでどんなに美しく見えても、特定の子ども像を理想として掲げることには抵抗があります。