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「教える」の本質は「知らせる」

 人に何かを「教える」とはどのようなことか、ずっと考えてきました。私は「知らせる」ことではないかと思います。「できるようにする」「分からせる」ではありませんし、「伝える」でもありません。

 教える側(に立たされている側)ができることは、あくまで「知らせる」にとどまるのではないでしょうか。そこにあるもの・ことについて、それがどういう意味なのか、何を示しているのか、どうやるのか、なぜ分からないのか、なぜできないのか、などを、教える側の立場から観察して読み取って、ただ述べること。それが「知らせる」ことです。あくまで教える側の経験や主観に基づくものでしかありません。受け手がそれを”知って”、その上でどう解釈して受け止めるかは、受け手次第です。知った後でどう振る舞うかまでは、教える側が決めることはできません(ある程度予測することはできるかもしれません)。

 教える側は、受け手につい期待してしまって、「分かってもらえない」「伝わらない」「できるようにならない」など様々な不満を抱えます。それは、教えることのゴールを見誤っているからです。教える側にできることは、ただ知らせることだけ。それが腑に落ちていれば、勝手な不満も抱かずに済むでしょう。

 今の日本の学校教育は、このような考え方からは程遠いところにあると思います。さも、初めから「身につけさせるべきこと」があるかのようにカリキュラムが組まれ、指導されていきます。当たり前ですがうまくいかないことも多く、大人も子どもも疲弊していきます。どちらが悪いということではなく、ただ、「教える」ことの意味を取り違えているのだと思います。

 この考え方に立つと、教わる側は、何かができるようになるまでただ自分でやるしかないということになります。おかしな気がするかもしれませんが、私は、教える側と教わる側がそれぞれ自立したこの姿こそが、本来の教育だと感じます。

芸術としての教育、科学としての教育

 教育には、芸術としての側面と科学としての側面があると思います。

 答えや正解がないという前提で、その都度、そこにいる人たちが関わり合って、良い、美しい、正しいと信じられる道を探していくことが芸術的側面なのに対して、現在わかっている、正しいとされている事実に基づいて客観的に状況を観察、分析、判断し、不適切なことは避けて、できる限り最善を尽くすことが科学的側面です。新たな創造や研究の種がそこで生まれます。

 どちらが重要ということではなく、大人の一人ひとりが、芸術家としての自由と、科学者としての知性の両方を大切にして、子どもと向き合えば良いと思います。その視点や感性や姿勢は、すべて自然と子どもに伝わるはずです。そこで子どもから新たな気づきを得られることもあります。その相互作用が教育そのものではないでしょうか。

 うまくいかないことがあった時は、”正解”や”常識”にとらわれて芸術的な観点を失っていないか、あるいは自分の直感や信念に固執して科学的な観点を失っていないか、まずは自分を見直すことで、軌道修正できると思います。

 自分も相手も人間です。常に状況をメタ認知して、柔軟に身体を変化させていくことが、大人には求められています。

「AするとBだよ」という声かけの本質を考える

 日本だけでなく世界中で当たり前に使われているであろう「AするとBだよ」という子どもへの声かけは、本質を見つめると世界観そのものがあらわになって面白いです。大人の思い込みは根深いので、注意が必要なのではと思います。

①因果関係パターン

 子どもの行動を見て、大人は「走ると転ぶよ」「それ以上重ねても倒れるよ」など、注意や助言の意味を込めて声をかけることがあります。大人は因果関係を知っているからです。子どもは知らないので、いくら言ってもやります。そして失敗します。そしてまた繰り返します。それは子ども自身の成長のためには絶対に必要なことです。何でも自分でやってみないと分からないのです。(大人も同じです。)

 「AするとBだよ」という大人の声かけは、もしかしたらなくても良いのかもしれません。よほど命の危険につながるような時だけ強制終了させられるように見守っていれば、あとは子どものやりたいようにやって良いし、黙って見ていると大人もあっと驚くことをするので純粋に面白いです。危ないと思うことも、「かもしれない」だけで、案外本当に危ない事態にはならず、気づいたら危なくないように子ども自身ができるようになっている、ということもあります。それに多少のケガなどは必要悪で、それで子どもが「次からこうしたらいい」と考えるきっかけになるので良いのです。

 つい口から出そうになる言葉を、これ本当に言う必要あるかな?と一度飲み込んで考えてみることは大切なことだと思います。子どもの成長にとっては、失敗もケガも全てプラスになります。これから起こることに対して勝手な見通しを立てない方が、互いに成長できる気がします。

②脅迫パターン

 また、「ご飯残すとデザートあげないよ」「宿題やらないと日曜日遊べないよ」「悪いことするとサンタさん来ないよ」など、因果関係も実はよく分からないような脅迫的な言い方にはもっと気をつけないといけないと思います。家庭や教育現場それぞれのルールがあって、そのルールを守らないといけない、という教育スタイル自体を否定するわけではありませんが、そもそもそのルールは適正なのか?根拠は?一貫性はあるか?(大人の気分でルールを変えていないか?)子どもも受け入れているルールなのか?など、よくよく考えないと、子どもは混乱します。一方的な大人の都合でその場を収めようとするような物言いは、子どもには通用しません。長い目で見ると、子どもの素直な成長が阻害されることに繋がりかねません。

 子どもが全く言うことを聞かない、という時は、もしかしたらこんな物言いをしていて、こちらが変わる必要があるのかもしれません。

 上の①因果関係と②脅迫は、いつもどちらかに分けられるというわけではなく、どちらも含んでいるようなパターンもあると思います。とにかく「○○すると○○」「○○しないと○○」という言い方には注意が必要で、特に咄嗟に口から出す場合は、後から反省した方が良いことも多そうです。

「教育は自分のためにやっている」という覚悟を決める

 教育は「子どものためにやっている」と思い込みがちです。もっと重くなると「自分を犠牲にして子どものためにやっている」となります。もちろん、自分より先に子どものことを思いやるのは大切なことです。でも「情けは人の為ならず」という言葉があるように、教育は子どものためではありますが、同時に自分のためでもあります。子どものためにやっていることが自分のためにもなっている、という喜びが教育者として歩んでいく原動力になります。

 別の角度から言うと、「自分のためにやっていることが子どものためにもなっている」と信じられる人が教育者になれるのだと思います。本当に子どものためになっているかどうかはこちらからは分からないので(その子が決めることだと思います)、信じるしかありません。その信念がプラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともあります。相性の問題や場の問題もあります。

 「自分のことなんて考えていない、全部子どものためにやっているのだ」という思い込みは、教育という営みがマイナスの結果を生んでしまった時に、毒にしかならないと思います。自分が悪いのかもしれないという反省への扉が閉じてしまいます。常に、「子どものためを思ってはいるが、同時に自分のためでもある(自分が気持ちよくなるためである)」という心を持っておく、むしろ「全部自分のためなんだ」と思うくらいでもちょうどいいかもしれません。

 一度どこかでそういう覚悟を決めると、いざ現場に入る時にはリラックスしていられる気がします。

人間も自然の一部である

 自分自身や人間の存在を都合よく消して自然について語る人が多いですが、特に教育において、ここは外してはいけないところだと思います。理論や法則を考える上では良いのですが、そこで実際に人間として生活し、人間同士が関わり合う場として捉える時には、自分の身体も自然の一部であるということを何度も実感し直すことが必要です。
 人間は機械ではなく、誰かが作ったプログラムで動いているわけでもありません。「こんな場合はこうすれば良い」と言うだけなら簡単ですが、肉体をもって実践しようとすると、そううまくはいきません。様々な要素が複雑に絡み合っているからです。当たり前のことですが、ついそれを忘れて「なんでうまくいかないんだ」「なんで言うことを聞かないんだ」と怒ったり嘆いたり、余計なエネルギーを使っている人が多い印象を受けます。
 都市で生活をしていると、「人間が自然である」とはどういうことか、簡単に分からなくなります。不具合があった時には物や技術の力でどうにかごまかせてしまうことが多いからです。言葉でどうにか言い聞かせて無理に納得させられてしまうことも多いです。機械やシステムの方に人間が合わせることに疑問が抱かれなくなっています。AIは脅威だと言われながらも、あっという間に乗っ取られそうになっています。日々あらわになる社会の綻びを見つめ、人の叫びを聞いていると、そのやり方には限界があるのではと思わされます。


 当たり前ですが、人間には個体差があります。遺伝子が違います。年齢や性別だけで見ても一人一人違います。朝が好きな人もいれば夜が好きな人もいて、寒いのが苦手な人もいれば暑いのが苦手な人もいて、大人数でにぎやかなのが好きな人もいれば静かに一人で過ごすのが好きな人もいます。その日の体調や気分によっても違うでしょう。季節や時間によっても違うでしょう。それぞれが自分の身体の状態を感じながら、折り合いをつけて社会生活を送っています。
 大人になると、自分の身体のことも把握しやすくなり、自分に合ったライフスタイルが選べるようになりますが、身体が成熟しきっていない発達段階の乳幼児や小中学生にその判断は難しく、また大人の保護下に置かれているので自由はかなり制限されています。「人間も自然である」という前提をないことにして、大人が勝手に作り出したシステムやルールや価値観に子どもたちを合わせようとしているのが今の教育です。「気持ちは分かるけど、決まりだから仕方ない」が合言葉になっています。(ここを変えていくのが一番難しいのですが……)
 ある程度のところまでは観察したり制御したりできるけれど、究極的には人間も「自然」で、法則通りにはならないし、思い通りにはなりません。台風や地震をコントロールできないのと同じです。自分のことも子どものこともそんな生き物として見つめれば、理不尽で不自然な規則や価値観で縛っても意味がないと気づけるのではないでしょうか。また、納得いかないことがあっても「自然なことだから仕方ない」と諦められるようになると思います。


 では、「人間が人間らしく、自然な状態である」とはどのような状態でしょうか?昔から色んな人が色んなことを考えてきました。性善説だとか性悪説だとか、利己的だとか利他的だとか、二択で決まるようなことではないし、生物学、医学、生理学的観点からもまだ解明されていないことが山ほどあります。
 答えが分からないからこそ、私は一人一人の曖昧なグラデーションを多様性として楽しみ、より良い社会とはどのような社会だろうかと考え続けるモチベーションに繋げていきたいと考えています。ここに教育の可能性とやりがいを感じます。
 自然状態の人間は、冷酷で乱暴なことも大いにあり得ます。自然状態を受け入れることは、そのような現実を受け入れることでもあり、覚悟が必要です。でもそれくらいの覚悟を持って動けば、綺麗事や欺瞞の芽を摘み取っていくことができ、今の人生や社会に閉塞感を感じている人は減っていくのではないかと、希望も持てるのです。

2023.1.6

子どもは自分の力で育つ

 子どもは大人と同じように、自分の感覚を頼りに自分の力で成長することができます。むしろ、様々な固定観念や偏見でがんじがらめになっている大人よりもずっと素直に柔軟に、努力を惜しまず夢中で自分を変えていくことができます。
 「教えてあげないとできるようにならない」というのは解釈の仕方によっては間違っています。手取り足取り全てを教える必要はありません。適切な環境さえ整っていれば、わざわざ教え込まなくても、子どもは自分から周りを観察し、吸収し、発見できます。ゴールも自分で設定できます。評価も自分でできます。時間はかかるかもしれないし、もしかしたら死ぬまでゴールに到達できないかもしれませんが、結果論ではなく、子ども自身がその過程を楽しむことができていれば十分ではないでしょうか。
 赤ちゃんはわざわざ教えなくても自分から寝返りをし、ハイハイをし、歩けるようになっていきます。生活しているだけで、どんどん言葉も覚えていきます。学校に通う年齢になってからも、その意欲、好奇心、自発性が尊重され、潰されなければ、好きなことややりたいことを自分で見つけて、技術や思考力を身に付けて、自分の道を進んでいくことができます。
 暗記や詰め込みではなく、課題発見、問題解決の力が大切であると、文科省もやっと舵を切るようになりました。しかし、それまで問いを与えられっぱなしで、「こうしなさい」「ああしなさい」と教えこまれていた子どもが急に「自由にしなさい」と言われても、戸惑ってしまうことは容易に想像できます。やりたいことの見つけ方を忘れてしまっている子どもは多いと思います。幼児期の小学校接続段階からそこを社会全体で意識していくことが必要で、余計な刷り込みをする大人が一人でも減っていけばいいなと思います。

理想の子ども像を持たない

 保育園や学校、その他教育施設において、「理想の子ども像」や「○○な子どもを育てる」など、行政や経営者の願いがこめられたイメージが掲げられていることは多いです。でもこれを前向きに考えれば考えるほど、なりたくてもそうなれない子どものことが脳裏に浮かび、大人たちは良かれと思って残酷なことをしているのではと感じるようになりました。
 元気になりたくてもなれない子はいます。周りに優しくしたくてもできない子もいます。勉強を頑張りたくてもそれどころではない子もいます。本人の努力だけの問題ではなく、環境を変えなければ動けない子どもたちは沢山います。そういう子どもたちが、他人(大人)が掲げた理想に近づこうと頑張ったとして、いつか幸せになれるでしょうか?理想に向かっていけない子どもは「問題児」「困った子ども」「落ちこぼれ」なのでしょうか?

 理想は理想。そのイメージに近づくことはできるかもしれませんが、理想を実現した姿は一つに決まりません。一人一人違います。「この子は実現している」「この子はしていない」と客観的な指標で判断できるものでもありません。仮に実現できたとしても、人間は自然な生き物なので、いくらでも変わる可能性があります。

 理想は子どもの数だけあって良いと思います。その子がその子らしく、否定されずにいられることが理想です。なのでどんなに美しく見えても、特定の子ども像を理想として掲げることには抵抗があります。